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ルーブル美術館展 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/31(Sun) 17:56:20 No.194  
「LADURÉE」(ラデュレ)

お土産にマカロン買った。
これが一番うれしかった。


会場ではこのパリの老舗パティスリー「LADURÉE」(ラデュレ)のマカロンを発売中!
ラデュレが世界に誇るマカロンを、ラデュレ特有のグリーンの馬車に乗せて、会期中だけ国立西洋美術館の正面入口(外)で販売しております。

ラデュレといえばマカロンが代名詞となっていますが、その誕生は20世紀半ばに遡ります。
かたく、乾燥したクッキーをマカロンと呼んでいた時代に、2つのマカロンの間にガナッシュを挟み、外はさっくりと、そして中はとろけるような食感が楽しめるマカロンの販売を始めたのがラデュレです。
これが、現代のマカロンの始まりとなりました。
その当時から同じ製法で作られているというこの伝統の味を、是非お楽しみください。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:12:15 No.195  

西洋美術館に行ってルーブル美術展を見てきました。
もうじき最終のせいか100分まち。
でもがばって見ました。
今回の目玉は何と言っても フェルメールのレースを編む女です。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:13:40 No.196  


1630年頃−1680年

モノクロームに近い抑制された色彩で、半裸の女性の上半身が描かれている。彼女は白い麻の下着を部分的にまとうだけで、左の胸は露わになっている。ほぼ画面の中心に描かれた彼女の左の乳房には強い光が当てられ、見る者の視線を誘う。その視線を見透かすように、彼女もまたこの絵を見る者を凝視している。1654年に制作されたこの作品の主題は、「バテシバ」である。自分の部下ウリヤの妻バテシバの美しさに惑ったダヴィデは、ウリヤを前線に送り戦死させ、自分の妻とした。旧約聖書(『サムエル記下』第11章)に物語られるバテシバの物語は17世紀にしばしば採りあげられ、多くの画家が忘れがたい女性像を残した。しかし、本作品では一切の付帯状況を排除し、バテシバの上半身のみを描くという異例な表現形式が採用されている。彼女をバテシバとする根拠は、彼女が右手にもつダヴィデの手紙のみである。ルーヴル美術館には、本作品と同じ年にドロストの師レンブラントによって制作された著名な同主題作品が所蔵されている。しばしばドロストの代表作と見なされる本作品がレンブラントから想を得ていることは間違いないが、微妙な明暗表現と繊細な色調によって瞑想的雰囲気は一層強調され、眩惑的な女性像が生み出された。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:14:12 No.197  


1632年−1675年

静かな室内で手紙を読み、あるいは、物思いにふける女性を描いた一連のフェルメールの作品は、17世紀オランダ風俗画のもっとも魅力的な部分を形成している。19世紀にパリで再評価されたこの画家とフランスとの強い絆を象徴するような作品が、この《レースを編む女》である。1870年にはすでにルーヴル美術館の所蔵となっており、最もよく知られたフェルメール作品のひとつである。これはフェルメールの作品の中でも小さなもので、前かがみになった娘の上半身が、少し下から見上げられるように描かれている。彼女はレース編みに熱中しているが、クローズアップで描かれているため、絵を見る者もまた彼女とともにこの細かい作業に加担しているような不思議な感覚に襲われる。画面左手前の赤と白の糸はまるで、カンヴァスの上にたらされた絵具そのものとして描かれており、どこか官能性を呼び覚ますような表現となっている。彼女の右手下に置かれた小さな書物はおそらく聖書と思われ、それは、ここに描かれるレース編みが女性の勤勉さを象徴するテーマであったことを思い出させるが、そのような主題性から開放され、光に満たされ、光に祝福されたような娘の凝縮された存在感が見る者を圧倒する。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:14:50 No.198  


1556年−1638年

画面左に、海の怪物の生贄にされたアンドロメダが大きく描かれている。彼女は薄布をまとうだけである。彼女の視線の先には宙を舞う騎士のような人物がいる。これは彼女を救いにきた英雄ペルセウスであり、ペガサスにまたがり、その下に見える怪物と戦っている。ティツィアーノに同主題の著名な作品(ロンドン、ウォーレス・コレクション)があり、多くの画家がこの16世紀ヴェネツィア派の巨匠の作品に想を得ながら同じ主題の作品を描いた。他方、本作品の作者であるウテワールなどのオランダの画家たちにとって、この主題は特別な意味をもってもいた。オランダは当時スペインとの独立戦争の最中であり、オランダの人々は囚われたアンドロメダと自分たちとを同化し、ペルセウスのような救世主の登場を希求していたのである。アンドロメダの足下には多数の貝殻に混じって幾つかの骸骨などが見えるが、これはスペインとの戦禍を暗示しているのだろう。ウテワールはオランダ・マニエリスムを代表する画家で、装飾的彩色、人工的空間構成、捩れた身体表現などを駆使した独自の作風で、黄金時代初期の絵画の展開に重要な役割をはたした



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:15:22 No.199  


1606年−1669年

レンブラントは、その画業の間中、自分自身を描き続けた。これらの自画像は、西洋絵画最大の巨匠のひとりが制作したものであり、黄金時代の作品の中でも特異な一群をなしている。レンブラントは、人生の各年代で自画像を描いたが、これらの表現の多様さは、別々の場面設定によるところが大きい。そこでは、様々な衣装が常に重要な役割を果たしている。《縁なし帽をかぶり、金の鎖をつけた自画像》では、ルネサンスの肖像画のように、「昔風に」帽子をかぶり、手袋をはめ、歴史的衣装に身を包んだレンブラントが示されるが、まさにそれにより、画家が過去の大画家の系譜に連なる者であることをはっきりと示している。同様に、贅沢に着飾った姿を示す衣装は、レンブラントにとって、貴族社会と一体化し、ヴァン・ダイクのような同時代の巨匠に近づく手段でもあった。
実際、オランダ連邦共和国では、有産階級が貴族の流儀を取り入れ、著名な画家の肖像画が大きな位置を占めるコレクションへと好みを向けていった。オランダのエリートたちのこの貴族化は、他のヨーロッパ諸国(特にフランス)の絶対王政によって発展した優雅さや権力のモデルに魅せられたものであり、レンブラントのこの自画像において、きわめて明瞭に示されている。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:16:06 No.200  


1590年−1649年

何かに誘いかけるような聖母と幼児キリストのまなざし。ルイ13世によって王家の主席画家と任じられたヴーエの卓越した筆の力によって、艶やかに描き出された聖母子像。着衣の赤、ヴェールの黄色、ラピスラズリの豪奢な輝きを持つ外衣の青、そして幼児キリストを包むシーツの白と、流麗な襞の明暗を刻み込みながら簡潔に色彩が配置され、聖母が掲げるナラの小枝の緑がそれらの色彩の対比に加わる。
17世紀、対抗宗教改革の時代にあったフランスでは、聖処女マリアは神と人とを仲介する存在として崇められ、ルイ13世も、1638年に息子の生誕に際し、フランスの国土を処女マリアに捧げる誓いをなしたほどであり、神の子キリストを伴った聖母子像は広く人気を博した。ヴーエの他の聖母子像では、聖母とキリストは互いを見つめ合っているが、本作品のみ、二人ともこちらにまなざしを向けている。若く美しい聖母と、足で御包みと戯れる生気溢れる姿は、聖母子の人間性に思いを至らせるとともに、穢れなき「受肉」の神秘にわれわれを導くかのようでもある。
画家の友人で庇護者でもあったルイ・エスランは王の助言者で、王宮の出納管理を司っていた人物で、本作品は彼のために描かれたと考えられている。聖母が持つナラの小枝は、力と忠実さの象徴とされ、二人の関係を証し立てるかのようでもある。
本作品は2004年に企業のメセナによってルーヴルの新たなコレクションとなったものである。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:16:50 No.201  


1593年−1652年

光源は幼子キリストが持つ蝋燭ただ一つ。輝く炎は、若々しいキリストの顔を清冽に照らし出しながら、幼子の左手を透かして見るものに届けられる。一方、大工仕事に精を出す養父ヨセフの手元をほのかに照らしつつ、額には年齢と労苦を刻み込んだ皺を浮かび上がらせる。ほぞ穴が穿たれた角材は十字架を連想させ、幼子の将来がすでに暗示されており、キリストに向けられた、慈愛に満ちながら、どこか不安げなヨセフの視線も、運命の予兆に緊迫感を加えている。画家が活動した17世紀前半のロレーヌ地方では、聖ヨセフへの信仰は、殊に活発となっていたが、そのための図像への需要が、この類希な才能と出会った時、見るものの視線を括り付けて止まない名作をもたらすことになったのである。
現在では17世紀フランスを代表する画家の一人に数えられるジョルジュ・ド・ラ・トゥールが見出され、再評価されたのは20世紀になってからのことである。本作品も、1938年に発見され、イギリス人パーシー・ムーア・ターナーの所蔵となっていた。彼によってルーヴル美術館に寄贈されたのは1948年、彼の友人で作品発見の翌年に亡くなった、ルーヴル美術館絵画部門の学芸員ポール・ジャモに対する追悼記念として贈られたのである



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:17:37 No.202  


1577年−1640年

本作品は17世紀フランドル絵画を代表するルーベンスが長いイタリア滞在から故郷アントワープに凱旋帰国し、神話主題の大作を次々に発表していた1615年頃のものと推定されている。重々しい堂々たる様式、華麗な色彩、量感に満ちた人体表現、これらのすべてはこの時期のルーベンスの特徴に合致している。燃える車輪に縛られ、イクシオンが劫罰に処される場面はしばしば描かれたが、本作品が採りあげるような、ユノに騙されるイクシオンの主題は珍しい。イクシオンはユピテルの妻ユノを誘惑するが、ユピテルが雲でつくったユノの似姿に騙される。画面右上方に描かれるのがユピテルで、画面左でイクシオンと抱き合っているのは偽のユノである。画面中央右に立つ本物のユノはイクシオンに背を向け、夫の元に帰ろうとしている。ここではイクシオンの物語を借りながら、人間の欲望や欺瞞が寓意的に表現されているのだろう。互いの左足を交差させるように中央に大きく描かれたふたつの裸身、すなわち、本物と偽者のユノのふたつの裸身もまた見る者を欺こうとしているかのようである。イタリアとの結びつきが強調されることの多いルーベンスであるが、特に、中央に立つユノの裸身は透明な薄い絵具が重ねられ、この画家がフランドル絵画の伝統の中で生きていたことをあらためて思い起こさせるだろう。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:18:10 No.203  


1600/10年頃−1648年

右手から差し込む強い光に照らし出され、テーブルを囲む6人の農民の家族。左手奥では、暖炉の揺らめく光に淡く照らされた3人の子供が控えている。食事の後とも思えるが、楽しげな団欒の活気を伝えるものはない。人物同士の視線は絡まることが無く、大人も子供も、穏やかにそれぞれの思いの中にある。農村生活の様々な現実に向き合いながら、慎ましくもわが身を持する厳粛な精神性が響き渡っている。
アントワーヌ、ルイ、マチューの3人からなるル・ナン兄弟は、フランス東北部のランに生まれ、1629年にはパリで親方として登録され、多くの肖像画や教会の祭壇画の注文を受けた。1648年、年初に創設された王立絵画彫刻アカデミーにも加わるが、5月にアントワーヌとルイが急死したこともあり、以後18世紀を通じて忘れ去られ、作品の多くも失われた。19世紀半ばに、同郷の文筆家シャンフルーリによって再評価されて以降、17世紀フランスにおける現実主義の画家として高く評価されることとなった。
本作品は、浅い奥行きと限定された色相と彩度の内に、光の効果と事物の質感を描き分けつつ、確固たる人物の存在感を描き出す、画家の力量と特質を存分に感じさせる代表作と言えるだろう



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:19:00 No.204  


1599年−1660年

王女マルガリータの肖像は、王妃マリアーナにより1654年に注文された。この絵画は、作品がヨーロッパの一国から他国へ、あるいは王女が宮廷から宮廷へと動くなど、黄金時代にあった国家間の移動の中でも、特に印象深い例のひとつである。富の流れは権力の流れと一致している。
この絵画は、ルーヴル宮の室内装飾の一部として、クール・カレの南側一階の王の母の住居にあった。現存するのは幼いスペインの王女を表わしたこの肖像のみだが、王家の肖像のギャラリーを想像する必要があるかもしれない。
王女は、スペイン王フェリペ四世と王妃マリアーナの娘であり、王妃でありルイ14世の母でもあるアンヌ・ドトリッシュの姪である。彼女の肖像画は、戦争によりフランスとスペインが対立しているにも関わらず描かれた。アンヌ・ドトリッシュはスペイン王家に愛着をもっており、カトリックの2つの強国が団結することを望んでいた。彼女の注文は、政治的理由と同じくらい感傷的な理由からなされており、この作品を理解するためには17世紀の専制主義のヨーロッパを支配していた名門家系の姻戚関係の文脈を想定することが必要である。
スペイン王家の子女たちの肖像は、ベラスケスの制作した絵画の中でも最も優れたものに数えられる。その中でも、王女マルガリータは繰り返し描かれた。例えばマルガリータは、プラド美術館に所蔵されている有名な《ラス・メニーナス》の構図の中央を占めている。ルーヴルの肖像画をうつしたマルガリータの肖像画の大部分は、スペインには残っていない。それらは、ヨーロッパの主要な宮廷に、王女の姿を知らしめるために送られたからである。肖像画は、決して単独では制作されず、時の外交上の必要性に答えるために、何枚もの複製が描かれた。1666年に、マルガリータは、オーストリア大公にしてドイツ皇帝のレオポルド1世と結婚したが、合併症を伴う幾度かの妊娠と、当時の医学の貧困さのため、22歳で亡くなることとなった。彼女はハプスブルク一家の墓所である、ウィーンのカプチン会の地下礼拝堂に埋葬されている。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:19:53 No.205  


1573年−1621年

1585年にスペイン軍に包囲されると、アントワープは、プロテスタントにとってはもはや安全な都市ではなくなった。それゆえ、宗教的迫害から逃れるため、アンブロシウス・ボスハールト(父)の両親は、より敵意の少ない北方のミッデルブルフに身を落ち着けた。ボスハールト(父)の名は、彼の弟子であり、おそらく共同制作者でもあったバルタザル・ファン・デル・アスト(1593/94年−1657年)としばしば結びつけられる。アンブロシウス・ボスハールト(父)は、花の静物画の偉大な創始者のひとりであったが、この分野は、他のヨーロッパ諸国とは比較にならないほどオランダで発展した。
ボスハールト(父)の最晩年に制作された本作品には、彼が以前に用いた、石の壁龕に花束と何匹かの昆虫を配置するという定型表現が再び使われている。描写の鋭敏さは、トロンプ・ルイユ(目だまし)的外観を際立たせ、また、植物と鉱物を結びつけることで、古代の画家ゼウクシスのだまし絵的な装置を思い起こさせる。少し前から、コンスタンティノープルより花が輸入されていたが、チューリップは希少性が高かったため、1630年代には不合理な資本投機の対象となった。ボスハールト(父)作品の正確な描写は、特に、遠方への旅行からもたらされた異国の種を扱う学問や研究に対する関心が、植物学あるいは昆虫学を通じて、17世紀初頭に増大していたことが示唆されている。ルーヴルのこの絵画は、当時の学者と芸術家を結ぶ共通の関心を色鮮やかな方法で例証している。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:20:32 No.206  


1602年頃−1682年

クロード・ロランは、フランス北東部のロレーヌ地方出身だが、幼年時代からは、まずローマ、次いでナポリと、イタリアの芸術家社会の中で成長した。ここでの風景画家たちの教えは、クロードの作品に深い影響を与えた。彼は1625年にフランスに戻り、スイスとドイツに滞在したが、1627年に旅を終わらせ、永遠の都ローマに最終的な居を定めた。この時代、ローマは芸術家たちが腕を競う中心地となっていた。それ故にアンニバーレ・カラッチの風景画に影響されたものの、やがて、クロードは彼固有の様式を展開するようになり、ニコラ・プッサンとともに古典主義的絵画の創造者となった。1644年頃に描かれた、《クリュセイスを父親のもとに返すオデュッセウス》は、クロードが高貴な題材と結びつけた美しい海港を描いた作品群のうちに含まれる。
この絵画の題材は、ホメロスの『イリアス』第1巻から取られている。この叙事詩によると、若いクリュセイスは、ギリシア人たちに連れ去られ、アガメムノンに戦利品として提供された。アガメムノンは、クリュセイスを彼女の父の元に返すことを拒んだのだった。神アポロンはクリュセイスの父の復讐の祈りにこたえ、ギリシア人の野営地にペストを蔓延させた。アガメムノンはついに、クリュセイスの解放に応じた。場面は、生贄に捧げられる予定の牛が上陸している間に、船の前にいるオデュッセウスが、解放された娘を父親のもとに返すというドラマの大団円を示している。
この絵画では、画家の詩的なビジョンにより、金色に輝く光の効果のもとで、古代の想像上の宮殿と17世紀の船の正確な描写とが結びつけられている。船の描写は、明らかにヨーロッパの船員が遠くの国々に上陸していることの暗示である。黄金時代の人間は、古代の現実生活の状況には疎かった。クロード・ロランは、古典主義的で壮大な建築を舞台として、古代ギリシアを当時の壮麗なローマ、地中海に移されたローマのイメージで思い描くことによってこうした欠落を埋めている。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:21:02 No.207  


1581/85年頃−1666年

17世紀オランダを代表する肖像画家として名高いフランス・ハルスは、即興性の高い筆致でオランダの市民社会を代表するような人々の姿を多く描いた。荒々しいまでの筆さばきは時に古典主義的典雅の対極にあり、また、いささか品格を疑わせるような人物の描写も古典主義からの距離を感じさせる。けれども、このような外見的特質をもって、ハルスを学識とは無縁の職人的画家であり、その作品を単に市井の人々を写実的に描いたものと見なすことは誤りであることを本作品は教えてくれる。ここに描かれるような派手な服装をまとった道化の半身像は、カラヴァッジョに影響を受けたユトレヒトの画家たちが得意にした主題であった。これは肖像画ではなく、むしろ、風俗画的人物像であり、あるいは、聴覚の寓意的表現だったかもしれない。とすれば、ハルスがしばしば描いた酔っ払いも単なる写実的肖像画ではない可能性が示唆されていることになる。とはいえ、この画家の作品を前にすると、絵画における主題の重要性はつい忘れてしまいがちである。本作品に見られる道化のおどけたような一瞬の表情、乱れた髪や赤い飾りのついた派手な衣装、楽器をもつ陰影に富んだ右手、そして、リュート中央のバラ窓のような装飾などは、確かにマネやクールベに啓示を与えたハルスの驚くべき近代性を実感させるに違いない。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:21:36 No.208  


1594年−1665年

古代ギリシアの彫像のような堂々として端正な横顔を持つエジプトの王ファラオの娘とその侍女。彼女たちの指が示す先には、川から救い上げられたばかりの幼児モーセが篭の中に見出される。遠景のピラミッドと、背中を見せて横たわる川の神の擬人像は、エジプトのナイル河畔が舞台であることを示している。イスラエル人の増加を嫌って、男児を殺害するという王ファラオの命から逃れるべく、モーセの母は、子をパピルスで編んだ篭に入れて川岸の葦の中に隠したが、今王女によって見出され、モーセは以後彼女に育てられることになる。旧約聖書「出エジプト記」に記されたこの場面をプッサンは、少なくとも3度描いているが、本作品はその最初のものとされる。
女性の衣服に施された青、黄、ピンク、緑の明るい色彩の共鳴は「救出」という喜ばしい情景を支えつつ、向こう岸の数人の人物像、さらには橋のアーチの向こうにわずかに見える彼方の人物へと段階的に視線を誘う。本作品は、人物のポーズと配置、そして色彩を綿密に練り上げるプッサンの力量を優れて伝える代表作の一つであり、1693年、ヴェルサイユ宮殿の庭園などを手がけた造園家ル・ノートルからルイ14世に贈られたものである。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:22:43 No.209  


1590年−1649年

何かに誘いかけるような聖母と幼児キリストのまなざし。ルイ13世によって王家の主席画家と任じられたヴーエの卓越した筆の力によって、艶やかに描き出された聖母子像。着衣の赤、ヴェールの黄色、ラピスラズリの豪奢な輝きを持つ外衣の青、そして幼児キリストを包むシーツの白と、流麗な襞の明暗を刻み込みながら簡潔に色彩が配置され、聖母が掲げるナラの小枝の緑がそれらの色彩の対比に加わる。
17世紀、対抗宗教改革の時代にあったフランスでは、聖処女マリアは神と人とを仲介する存在として崇められ、ルイ13世も、1638年に息子の生誕に際し、フランスの国土を処女マリアに捧げる誓いをなしたほどであり、神の子キリストを伴った聖母子像は広く人気を博した。ヴーエの他の聖母子像では、聖母とキリストは互いを見つめ合っているが、本作品のみ、二人ともこちらにまなざしを向けている。若く美しい聖母と、足で御包みと戯れる生気溢れる姿は、聖母子の人間性に思いを至らせるとともに、穢れなき「受肉」の神秘にわれわれを導くかのようでもある。
画家の友人で庇護者でもあったルイ・エスランは王の助言者で、王宮の出納管理を司っていた人物で、本作品は彼のために描かれたと考えられている。聖母が持つナラの小枝は、力と忠実さの象徴とされ、二人の関係を証し立てるかのようでもある。
本作品は2004年に企業のメセナによってルーヴルの新たなコレクションとなったものである。



Re: ルーブル美術館展 hosikuzu - 2009/05/31(Sun) 18:24:16 No.211  


1617年−1682年

神の子イエス・キリストを宿した聖母マリア自身も、穢れなきまま母アンナから生まれたとする「無原罪の御宿り」の教義は、17世紀スペイン、殊に画家ムリーリョが活躍したセヴィリアでも熱烈な信仰を集め、多くの作例が生み出された。ローマ・カトリックが正式にこの教義を認めたのは、1854年になってからだが、1661年、教皇アレクサンデル7世はこれを容認する勅書を出した。本作品は、このことを受けて1662年から改築が始まったセヴィリアのサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会に対して、画家の友人でもあったドミンゴ・ベラスケス・ソリアーノが寄進した4点中の1点である。画面左端の人物がソリアーノと思われる。縦長の構図を持つムリーリョの他の同主題の作品とは異なり、横長の画面の中央に聖母が捉えられているが、この画面形状は掲げられていた教会上部の壁面形状によるものである。
「神は最初から彼女を愛しておられた。」と記された布を拡げる天使の愛らしい姿。手を合わせ、左下に顔を向けながら眼を伏せて思いに沈む聖母の清純な姿は、セヴィリアに留まらず17世紀のスペインで広く人気を博したムリーリョの甘美な聖母像の魅力を存分に感じることができるだろう。



東京原子核クラブ 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/28(Thu) 00:52:08 No.192  
東京原子核クラブ

昭和7年、東京本郷にある下宿屋「平和館」。理化学研究所に勤める若き物理学者・友田晋一郎は研究を諦め故郷に帰ろうとする矢先、提唱していた物理学上の仮説が認められ、研究所に残る決心をする。下宿に住むピアノ弾き、新劇青年、野球に熱中する東大生らと共に、愚かしくも美しい青春の日々が始まる。だが日本は少しずつ戦争に向かって歩んでいた……。


俳優座劇場プロデュース NO.78
東京原子核クラブ 作:マキノノゾミ、演出:宮田慶子

時代は昭和7年から、終戦の昭和21年まで
場所は東京本郷の「平和館」という下宿屋・・・木造アパート・・
木造2階建て、2階に4室、1階3室、計7室。アパートの主人と娘
そして、7人の住人とその友人の計12人と犬一匹の特徴ある登場人物たち

主役は・・・誰なんだろう?独身を貫く娘の桐子?元ダンサーの富佐子?
京都出身で東京理化学研究所からドイツに留学した友田?
東大生を装って東大野球部から出征する偽学生の橋場?
陸軍から依頼されて原子力爆弾を研究する理化学研究所の西田主任?
なぜか関西弁のピアニスト早坂?新劇作家を目指す谷川?
友田の同僚で実験担当の武山?友田の同僚で理科研究所から移籍する小森?
東大野球部でやがて橋場とともに下宿する林田?
武山の友人、桐子の見合い相手で海軍中尉の狩野?

日本も原子爆弾を研究していた・・・物理学者にとって自然法則の研究は・・
東京フォーラムのこけら落としのための作品としてマキノノゾミが『東京』に関するものを依頼されたとき、東京理化学研究所のことを書きたいと思ったそうです。
いろいろ構想を練ってみたが、研究所を舞台にすることを断念し、下宿屋を舞台にすることを思いついたと言う。

舞台は、友田の挫折からはじまる。荷物を持って部屋を引き払おうとする友田。桐子がそれを見送る。
「友田さん、京都でしたね」
「そうです。やっぱり、歯が立ちませんでした。理化学研究所はレベルが違います。」
「そうですか、あんなに張り切っていたのに・・・わたしも理研に入りたかったのに、女だからあきらめたの・・・だから・・・友田さんがうらやましい」
「そんなこと」
「わたし 送ってゆく、すごそこまでだけど。犬の散歩のついでに・・洗濯物干してくるから、待ってて」
桐子を待っていると朝帰りに早坂が・・黙って部屋に入ってゆく。そして部屋からピアノの音が流れる。ダンスホールでピアノを弾く早坂一平は、大のギャンブル好きで・・勝ったときは腹巻に札束を差し込んで、下宿代を桐子に渡す。
もう一つの部屋からは、派手な衣装の女が現れ、バックからタバコを出すとくわえながら友田に「ねえ・・火」とせがむ、「私はタバコは吸いませんから」というと、今度はマッチを取り出し「つけて」という。友田の火でタバコを吸うと
「最後に・・やさしさをうけたかったの・・・ねえ・・」早坂の部屋の前へいって「別れの曲をやって」というと、ドアにお札を1枚差し込む・・・すると、ショパンの別れの曲が流れる。ダンサーの箕面富佐子・・桐子のハイヒールを履いて平和館を出て行った。
富佐子の後に現れる桐子・・・「あら?」と気がつくと友田が指差しながら「今、出てゆきましたが」「ええ・・・富佐子さん・・・やられた」と追いかける。
桐子が諦めて帰るところに・・同僚の武山が朝帰り・・どうやら徹夜の実験だったらしい。「おお・・・友田?帰省か・・」「え・・ああ・・まあ」と口ごもる友田
「さあ、行きましょう」・・・階段を上がりながら武山が、「そうだ。西田先生がお前の中性子理論に興味があるって、次からはお前のテーマで実験を始めるって・・ほんとに人使いが荒くてこまる。だから・・早く帰って来いよ」
「え・・はい」「よかったじゃないですか。友田さん」

この話に、なぜか東大の野球部が絡んでくる。2階住人の橋場はニセの東大野球部。家主の彦次郎も彼を応援する。
「本郷に住んでいる以上、東大が勝つのを1度は見たいものです」と
ある日・・・早稲田との試合で、2対2の同点満塁で9回裏を迎えた東大が、ピンチヒッターに橋場を起用した。そして、橋場はそこでセンター前ヒットを打ってみごと東大が早稲田に勝ったのです。ところが、試合の後のインタビューのとき橋場がニセ学生ということが報道陣にばれてしまった。東大の勝利は取り消し、東大は出場停止ということになり。橋場は書きかけの遺書を残して・・・1階の便所に半日以上、立てこもったのです。
「橋場が自殺を」と思った住人や家主は便所の前で橋場を説得するのだが
そこへ東大野球部の林田が現れ、便所の前で土下座しながら「橋場君、謝るのは僕たちのほうだ。どうか出てきて話を聞いてほしい」と
橋場が素直に便所から出てくる・・「林田君」「橋場君、チームメイトはみんな、わかっていた。君が東大生でないことを・・・だけど、それを知っていて君を起用したんだ。悪いのは僕たちのほうなんだ」と

日本はやがてアメリカと戦争を始めると・・・この二人は出征する。
武山の友人、狩野良介は海軍の中尉で、極秘に原子核エネルギーを研究し原子爆弾の開発を進めていた。理研の西田は陸軍の依頼で原爆の開発を続けていた。
友田は、論文をアメリカに先を越されたりして挫折感を味わいながら、やがてドイツに留学して・・・新たな光を見出すのだが、一方で原子エネルギーの研究が恐ろしい爆弾の開発になることも判っていながら・・・研究は続く、科学者と言うものはそういうものなのだと・・

ヒロシマとナガサキに原爆が落ちて・・・終戦になった。
焼け崩れながらも、なんとか残った平和館に再び現れる友田と小森。理科研究所も閉鎖になり武山が理研ウイスキーを持って平和館に現れみんなで、飲み始める。
桐子が質問する・・・「日本も原爆を開発していたというのは本当ですか」と
二人は本当だと答えながら・・・科学者の立場で、ヒロシマとナガサキの原爆をどう感じたか・・・ある意味、やったと心のどこかで喜んでいる自分がいたと正直に言う。
「人間の大脳皮質が発達を続ける限り、自然法則の探求を止めることは不可能だからです」と友田が・・・言い訳をする。

桐子は友田に・・橋場からの葉書を手渡す・・友田はそれを読むと・・今はもうピアノを弾かないという早坂の部屋の前で土下座して・・「早坂さん、お願いで橋場君のために別れの曲を弾いてください」そして・・葉書を読む。
「前略 桐子さん・・みなさん、お元気ですか?僕はこれから死にます。日本で原子力爆弾の開発をしていると聞いて安心しました。だから、ぼくは喜んで死にます。」と
ふたたびショパンの別れの曲が流れ出す。しかし、音程がおかしくて途中で止まってしまう。早坂が現れ「弦がきてれれ、これ以上はあかんのや・・・さあ、飲もう」

そこへ・・ぼろぼろ姿の富佐子が現れて、懐かしそうに平和館をながめソファーに座ったところで、桐子が始めて泣いた。富佐子にしがみつくようにして気丈な桐子が声を出して泣くのであった。・・・完



Re: 東京原子核クラブ hosikuzu - 2009/05/28(Thu) 02:20:09 No.193  

朝永振一郎さんがモデルの、若き日の物理学者



国立トレチャコフ美術館展 忘れ... 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/18(Mon) 02:59:51 No.183  
トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア


ロシア美術の殿堂、モスクワの国立トレチャコフ美術館は、中世から現代に至る約10万点の作品を所蔵しています。なかでも19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、創始者トレチャコフが熱心に収集した同時代の傑作が揃っています。本展は、所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等による名品で構成されます。19世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品を中心に、著名人チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の肖像を加え、リアリズムから印象主義に至るロシア近代美術の流れを辿る展覧会です。



Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:04:05 No.184  

 ロシア美術の殿堂、モスクワの国立トレチャコフ美術館は、中世の美術も含め約10万点の作品を所蔵しています。なかでも19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、創始者トレチャコフが熱心に収集した同時代の傑作が揃っています。
 本展は、所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等、38作家による75点の名品を紹介し、このうち50点以上が日本初出品となります。19世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品と共に、チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の文豪の肖像画も加えて構成し、リアリズムから印象主義に至るロシア美術の流れを追う、意欲的な試みとなる展覧会です。



アレクセイ・サヴラーソフ、ニコライ・ゲー、イワン・シーシキン、ワシーリー・ペローフ、
イワン・クラムスコイ、イラリオン・プリャニシニコフ、アルヒープ・クインジ、ワシーリー・ポレーノフ、
イリヤ・レーピン、ニコライ・カサトキン、イサーク・レヴィタン、コンスタンチン・コローヴィン、
アブラム・アルヒーポフ、ワレンチン・セローフ、イーゴリ・グラバーリ、コンスタンチン・ユーオン 他

忘れえぬ女
表紙を飾るのは、ロシア語の原題を直訳すればむしろ《見知らぬ女》となるクラムスコイの名作。日本ではその謎めいた美しさゆえ、いつしか《忘れえぬ女》と呼ばれるようになった作品です。しかしそれはこのイメージがそれほどまでに印象的で、心に残るものであるからに他なりません。たしかにこの女性像は、日本だけでなく世界中の人々を魅了してきました。またこれは、19世紀後半から20世紀にかけてロシア絵画の潮流を代表する作品の一つでもあり、本展が辿ろうとする流れに位置付けられる作品なのです。
 19世紀後半のロシアは、社会の混乱とは対照的に文化的には実り豊かな活気溢れる時代でした。つまりクリミア戦争の敗北から農奴制廃止を経て、巨大な帝国は社会主義革命を前に静かに沈没していく運命の只中でした。そんな中で知識人たちは、民衆を、祖国を意識し、社会の真実を探求しました。ドストエフスキーやトルストイが世に送り出した大作を誰もが耽読し、美術界もまた多くの才能を輩出しました。

この時代のロシア美術の中心的な考え方がリアリズム(写実主義)でした。そしてそこにはいくつかの方向性がありました。一つは批判的なリアリズムであり、社会の矛盾を暴露する内容を持つジャーナリスティックなもの。またこれとは別に、ときには同じ画家が、そんな社会の片隅に生きる人々の小さな幸せを、あるいはそこにふと見出した真の美しさを描きとめようとしました。そして鋭い心理的洞察を通して盛んに描かれた肖像画も、リアリズム絵画の重要な分野でした。
 馬車に乗った女性を描いたクラムスコイの作品は、街角で出会った美しい瞬間を、肖像画のような形で表現したものです。寒いロシアの街であえて無蓋の馬車に乗るこの見知らぬ女性は、決して上流の貴族階級ではないでしょう。画家は憂いとも悲しみとも取れるその表情を通じて、社会の真の姿を表現しようとしたのでしょうか。しかしながら一瞬の美を見事に描き出したこの作品は、写実主義的な描写ながら、ロシア絵画の印象主義的方向への展開を示すものともなっています。




Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:05:52 No.185  

トレチャコフの夢

クラムスコイには別の側面もありました。彼は1863年、サンクトペテルブルグの美術アカデミーの14人の学生が、卒業制作のテーマを自由に選択させよと叛乱を起こした事件の首謀者でした。画学生たちは放校になりましたが、その後彼らに対してモスクワの画家たちが移動展覧会協会を共同で立ち上げることを提案しました。移動展派と呼ばれるグループの誕生です。彼らは地方都市に美術展を巡回させ、啓蒙活動を展開し、クラムスコイはそこでも主導的な役割を果たしました。

 19世紀後半、官展に対抗しロシア美術界の真の牽引役となるのがこの移動展派で、第1回展は1871年にサンクトペテルブルグで開催されました。クラムスコイの他、ペローフ、サヴラーソフ、プリャニシニコフ、シーシキン、ゲーをはじめ、本展に作品が出品されている多くの画家がこれに関わりました。もともとのきっかけが主題の選択の自由に関することであったことからも、ロシア絵画はこのときから、更なる豊かな広がりをもつことになりました。


ロシア美術史上極めて重要なこの運動を支えたのが実業家トレチャコフでした。1850年代から収集を始めた彼は、移動展派の画家たちの作品を大量に買い取り、彼らの重要な庇護者となったのです。トレチャコフ美術館のコレクションの中でも、19世紀のリアリズム作品がこれほど充実しているのはひとえにその賜物であり、トレチャコフ美術館は「移動展派の家」とも呼ばれています。トレチャコフは特別な存在となり、画家の誰もが作品の値段を下げてでも彼に作品を購入してもらうことを望むほどでした。
 移動展覧会が本格的に展開する前の1860年代に活躍した画家の中で、トレチャコフが特に注目したのがペローフでした。もっとも19世紀前半のヴェネツィアーノフの流れをくむ、この極めて社会派のリアリズム画家においても、《鳥追い》や《眠る子どもたち》といった、名もない民衆の日常における小さな喜びを描いた心温まる作品を描いています。
 一方、風景画家であったサヴラーソフは、ロシアに広がるありふれた風景に着目し、リアリズムの画家としての姿勢を貫きながら、祖国愛を喚起する叙情性溢れる作品を送り出しました。
風景をロマン主義的な感性でとらえるクインジも個性豊かな画家として移動展覧会で人気を呼びましたが、徹底した客観的な細密描写でロシアの身近な森を描いたシーシキンの作品も、祖国の美しさを再認識させる結果となりました。


ニコライ・ゲー
《文豪トルストイの肖像》



Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:07:15 No.186  

パリで受けた洗礼

移動展派第一世代のクラムスコイやシーシキンも西欧を訪れていますが、第二世代の中心的画家であるレーピンの三年間に渡るパリ給費留学は、第1回印象派展の前年、1873年から始まりました。レーピンが印象派展を見たかどうかは定かではありませんが、彼らの存在を意識していたことは手記などから知られています。レーピンは風俗画や歴史画、あるいは肖像画を得意とした民族派あるいは社会派ともいえるリアリズムの画家ですが、屋外の平穏な日常のひとコマを主題として、明るく軽やかな色彩と軽快な筆遣いで印象派風の作品を描くようになるのもこの滞在がきっかけとなったのです。とはいっても、それは《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》といった、家族や身近な世界を描いた比較的小さな作品、すなわち注文ではない自由に制作できる作品においてだけでした。

イリヤ・レーピン
《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》



Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:07:57 No.187  

 帰国後、彼は再び歴史的・社会的な主題の構成的な大画面の作品を次々と制作しますが、それらの作品ではフランスやイタリア訪問を機に得た鮮やかで情熱的な色使いと、さらに勢いを増した確かな筆致が、この画家の特徴として息づいていくのです。

イリヤ・レーピン
《ピアニスト、ゾフィー・メンターの肖像》



Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:09:04 No.189  

ドイツ、イタリアを巡り、レーピンと同じ時期にパリにも滞在した画家ポレーノフは、フランスにおける新しい絵画の動向をさらに積極的に取り入れ、明るい風景画の秀作を数多く残しています。特にパリ留学後に制作された《モスクワの中庭》は、アパートの窓から見た平和な市民生活の裏舞台がのどかな雰囲気の中にまとめられており、ロシアにおける外光派の誕生を告げる記念碑的作品となっています。
 一方、移動展派には、レヴィタン、コローヴィン、セローフ、アルヒーポフ、カサトキンといった若い画家が入会し新しい世代を形成しましたが、1890年代には次第に派の活動は下火となっていきました。それは美術を、民衆の啓蒙活動や社会悪の告発のための道具とするのではなく、リアリズムといえどもむしろ日常生活の中に美と生の喜びを見出し、それを描き出すことに芸術家の関心が移っていったことを示しています。




Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:10:48 No.190  

この世代の画家たちは、明るく澄んだ色彩で自然とその中に調和する人間の姿を描き出しました。中にはレヴィタンやコローヴィン、グラバーリ、セローフ、ユーオンのように、直接パリで新しい美術の洗礼を受けた画家もいますが、西欧の美術の動向を若い彼らが知らないはずもなく、ここにおいてロシアのリアリズム絵画、つまり写実主義は、主題と描き方の両方において、その究極の段階であり終章とも言うべき印象主義の段階を迎えたのです。そこには各々画家の個性もさることながら、雪や白樺といったロシアならではのモチーフの展開も注目されます。


ニコライ・カサトキン
《ライバル》



Re: 国立トレチャコフ美術館展 ... hosikuzu - 2009/05/18(Mon) 03:11:48 No.191  

リアリズムは19世紀から20世紀初頭のロシア美術を理解するキーワードです。本展はそれがこの特異な社会風土の中で、印象主義的なものへと変貌していく流れを、自然(大地)、人(肖像)、風俗(生活)という三つの視点に着目しながら、体系的に追う展覧会です。トレチャコフという並外れた炯眼の持ち主によって収集された珠玉の作品群は、訪れる人に美の世界の新たなページを開いてくれるにちがいありません。


イワン・シーシキン
《森の散歩》



無題 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/18(Mon) 03:08:34 No.188  
ドイツ、イタリアを巡り、レーピンと同じ時期にパリにも滞在した画家ポレーノフは、フランスにおける新しい絵画の動向をさらに積極的に取り入れ、明るい風景画の秀作を数多く残しています。特にパリ留学後に制作された《モスクワの中庭》は、アパートの窓から見た平和な市民生活の裏舞台がのどかな雰囲気の中にまとめられており、ロシアにおける外光派の誕生を告げる記念碑的作品となっています。
 一方、移動展派には、レヴィタン、コローヴィン、セローフ、アルヒーポフ、カサトキンといった若い画家が入会し新しい世代を形成しましたが、1890年代には次第に派の活動は下火となっていきました。それは美術を、民衆の啓蒙活動や社会悪の告発のための道具とするのではなく、リアリズムといえどもむしろ日常生活の中に美と生の喜びを見出し、それを描き出すことに芸術家の関心が移っていったことを示しています。


ワシーリー・ポレーノフ 
《モスクワの中庭》



講談  悲しみの母子像 神田香... 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/16(Sat) 20:52:06 No.180  
「悲しみの母子像」 神田香織

32年前の横浜に落ちた米ジェット機墜落事件

の講談を聞いた。

講談で、自分は何を伝えるのかと使命感を持って伝えている

手がけてきた講談
「はだしのゲン」「チェルノブイリの祈り」「常磐炭鉱聞ーフラガール物語」「悲しみの母子像」など



土志田 勇 hosikuzu - 2009/05/16(Sat) 21:04:38 No.181  

米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ 改題『「あふれる愛」を継いで』 土志田 勇

この本を元に講談が作られている。
この亡くなられた 子どもたちの祖父であり 和枝さんの父でもある 篠田さんの本である。

神田香織さんは土志田 勇さんに会ったときにぜひ講談で語ってくれと頼まれた。
あまりに重い課題、やっと語ることができたという 新作だ。



紹介
 歳月は経過したが、米軍基地をめぐる「ひどい話」は、今も昔も変わりなく続いている。横浜市・緑区(現青葉区)の事件の場合、米軍からの連絡ですぐにやってきた自衛隊救難ヘリは、血だるまの被災者よりも、パラシュートで降下した無傷の米兵だけを乗せて、飛び立ってしまった。重傷の幼な児たちを、すぐに病院に運べば助かったかもしれないのに(早乙女勝元氏・序文より)。好評につき、改題再登場!

目次
改題本の刊行に際して

序 文 あふれる愛の志に生きる(早乙女勝元)
    語りつぐべき人と事件(佐高 信)

はじめに
第一章 和枝が逝った理由
第二章 忘れられない事故の日のこと
第三章 事故の記録を残そう
第四章 和枝との思い出
第五章 もう一度、和枝に子どもたちを抱かせてやりたい
第六章 和枝の思いを「福祉」に託す
第七章 人の温もりにささえられ
おわりに

土志田和枝年譜




Re: 講談  悲しみの母子像 神... hosikuzu - 2009/05/16(Sat) 21:07:37 No.182  

前書きなど
語りつぐべき人と事件   佐高 信(評論家)

 愛は悲劇によってしか刻印されないものなのか。娘と孫を襲ったこれ以上ない惨劇から二十八年。その受難を改めて綴る父のペンは悲しいまでに冴え渡り、読者の血涙を誘う。
 私は二十七年目の二〇〇四年に『サンデー毎日』のコラム「佐高信の政経外科」で、二度、天国の土志田和枝さんに宛てて手紙を書いた。最初は「愛の母子像へ」という形でである。それを次に引く。
 
 横浜の「港の見える丘公園」のフランス山にある「愛の母子像」は「あふれる愛を子らに」と書いてあるだけで、何の説明もなく、通り過ぎる人も何の像かわからないという感じでした。裏にも「寄贈者 土志田勇 昭和60年1月17日 山本正道作」としか書かれていません。
 一九七七年九月二十七日の午後一時過ぎ、横須賀の米軍基地から出航する空母ミッドウェーを追って、厚木基地から飛び立ったファントム・戦術偵察機が横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落し、五棟の家屋が全半焼するなど、九人の死傷者が出ました。あなた方はその犠牲者ですね。
 この間、沖縄の普天間基地に隣接する沖縄国際大に米軍ヘリが落ち、何日か経って重い腰をあげた自民党の政調会長は「怪我人が出なくてよかった」という意味のことを言いましたが、あなた方のことはとうに記憶から消え去っているのでしょう。もちろん、同じ神奈川県出身の小泉首相の頭にもないと思います。
 私はいま、あなた方のことを書いた早乙女勝元原作のアニメ絵本『パパ ママ バイバイ』(草土文化)を横に置いて、これを書いています。
 ここに登場する三歳のユー君と一歳のヤス君はすぐに亡くなりました。「母子像」の寄贈者の土志田さんの孫ですね。
「痛いよ……熱いよう……」
 全身に包帯を巻かれたユー君は苦しさに暴れ、
「お水ちょうだい……ジュースちょうだい」
 と繰り返しました。
「いまは、あげられないんだよ……お水飲むと、もっと苦しくなるのよ」
 泣きながら、こう言わなければならなかったおばあちゃんの辛さはいかばかりだったでしょう。そして、
「パパ……ママ……バイバイ」
 と呟いてユー君は亡くなりました。
 ようやくカタコトが言えるようになったヤス君はユー君の後を追って、
「ポッ……ポッ……ポ……」
 と鳩ぽっぽの歌を歌いながら亡くなったのです。
 あれから二十七年経って、状況はまったく変わっていません。あの時、米軍の飛行士二人は無事に落下傘で降り、何の罰も受けずにアメリカに帰りました。米軍は事故原因の証拠品であるエンジンなどをすばやく基地に運び、日本の警察などにはまったく手を触れさせませんでした。それどころか、海上自衛隊のヘリコプターは米軍飛行士の救助を真っ先にやり、あなた方を救うはずの日本の救急車は一番後に来たといわれます。
 ママの和枝さんは体の皮膚の八割近くも焼かれ、全国の千人以上の人から皮膚の提供の申し出を受けて六十回もの手術を繰り返し、何とか命をとりとめました。しかし、最初は隠されていたわが子の死を知った悲しみを想像することはできません。
 その後、パパとは離婚することになり、土志田姓に戻ったママは当然のことながら、米軍に対して無力な国を強く批判します。そして、一九八二年一月二十六日、格子のある病院で三十一歳の短い生涯を終えたのですが、今度の沖縄の事件で、どれだけの人があなた方のことを思い出したでしょうか。
 あなた方の信じられないような悲劇に対して、少しでも安らかに成仏をと願うなら、日本から米軍基地をなくすしかありませんね。沖縄をはじめ、米軍はいままでにたくさんの悲劇を生んでいますが、それで何を守っているというのでしょうか。
 
 そして私は一週おいて、また、土志田和枝さんへの手紙を書いた。
 
 一九七七年九月二十七日、米軍機の墜落によって二人の稚な児を亡くし、自身も全身に火傷を負って、五年後の一月二十六日に三十一歳で昇天したあなたの無念を新たにする集会が、今年も横浜市緑区の公会堂で開かれましたよ。私も参加して、あなたの書いた『あふれる愛に』(新声社)を求めてきました。
 その日講演した「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」の信太正道さんは、かつて、特攻隊員であり、戦後は日本航空の機長をした人ですが、ちょっと飛べばすぐに海があるのにパイロットが自分だけは助かろうとパラシュートで脱出したのは信じられないほどの技量未熟だと怒っていました。広島、長崎に原爆を落としたパイロットと同じように、そこに日本の市民が住んでいるという感覚がないからでもあるでしょう。
 また、信太さんは、多くの日本人がこの重大な事故を忘れてしまっているのは、翌九月二十八日に日本赤軍によって日航機がハイジャックされ、赤軍兵士ら六人が釈放されるまで世間の耳目はそちらに注がれたからだろうとも言っていました。たしかに、たとえば毎日新聞社刊の「シリーズ20世紀の記憶」の一九七六—一九八八『かい人21面相の時代』にも墜落事件のことはまったく出てきません。しかし、語り継がなければならない事件であり、あなたのような悲劇に遭遇する危険は、いま現在、私たちにもあるということですね。
 この墜落事故による被害者は、当時次のように報じられました。
 〈中略〉
 あなたの手記にはこうあります。
「地上に降り立った(ファントム機のパイロット)二人は、ほとんどケガらしいケガもなく、約二十分後に海上自衛隊のヘリコプターに収容され、厚木基地に運ばれた。五人の重傷者を出すという大惨事のさなか、自衛隊が活動したのは、実にこの二人のパイロットの救助にだけだったのである。米軍関係者が現場に到着したのは、事故から一時間もたった(午後)二時二十分ころであった。その後マイクロバスやヘリコプターが到着したが、米兵たちがまず行なったことは、被害者の救出や被害状況の調査、ではなく周辺の人たちを事故現場から閉め出すことだった。怒りにふるえる人たちに、彼らはニヤニヤしながらVサインを出してみせたりした」
 あなたの子ども二人が翌朝までに亡くなった後、あなたの夫の妹が危篤状態に陥りました。そのとき、夫は当時の防衛庁長官に目を血走らせて食ってかかったということです。
「子ども二人を殺しておいて、このうえ三人目の妹まで殺したら承知しない。あんたが命令すれば、妹は日本全国、どんないい病院へだって入れられるはずじゃないか」
 すさまじい闘病生活を支えた夫に、あなたはある時、こう言ったそうですね。
「パパ、私もカーター大統領からファントムを一機もらおうかしら。そしてアメリカにそれを落としてやるの」
 その後あなたは離婚し、土志田姓に戻るわけですが、私はその経緯を尋ねようとは思いません。ただただ、アメリカに対してあまりに弱腰な日本政府に憤激を強めるだけです。
 
 多分、何度も目を真っ赤にしながら、それでも激情に流されずにこの手記を綴ったと思われる土志田勇さんに、私はただただ頭を下げたい。
 これは言うまでもなく、亡き娘との共著である。



ルーヴル美術館展 美の宮殿の子... 投稿者:hosikuzu 投稿日:2009/05/10(Sun) 23:09:20 No.178  
国立新美術館に行ってきました。


国立新美術館
ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち

2009年3月25日(水)− 2009年6月 1日(月) 会場:企画展示室1E

「美術のなかの子ども」をテーマに、ルーヴル美術館の7つの部門(古代エジプト美術、古代オリエント美術、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術、絵画、彫刻、美術工芸品、素描・版画)から、名品約200点が一堂に会します。ルーヴルが所蔵する唯一の子どものミイラから、古代ギリシャの優美な彫刻、古代オリエントのかわいらしい玩具、ティツィアーノやシャルダンの絵画、ルーベンスらの素描まで、時代・地域・分野を横断するさまざまな美術作品を通じて、子どもとそれを取り巻く世界がどのように表現されてきたかをたどります。

展覧会ホームページ:http://www.asahi.com/louvre09/



Re: ルーヴル美術館展 美の宮殿... hosikuzu - 2009/05/10(Sun) 23:13:57 No.179  

前から見たかったルーヴル美術館展 
国立新美術館と上野と両方でやっている。

国立新美術館の近くでの用事があったので、時間を見て行ってきた。
とても期待していたのに がっかり
何んだこれは  企画倒れ?

子供のミイラ見たってしょうがない
子供が描かれてればなんでもいいっていうような なんかそんな感じで

ゴブラン織りだの エジプトの土器の破片だの
そういうの見ても・・・・つまらなかった。
感動するような作品がなかった。

上野のルーブル美術展の方が弱そうだな。
なんか期待していただけでに とっても不満です。

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